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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

ATC社の時代その2


ATC社時代その2

1998年2月16日初出勤した。新しい家からは約1時間の距離であった。

環境が変わった。関東に来てからずっと千葉に住んでいたが、JABに変わってから、京王線の芦花公園に移り住んでいた。そこが狭くて窮屈であることから脱出しようと北赤羽に新しく移り住んだわけだ。千葉時代の友人とも決別した。
千葉時代の仲間は、造船を卒業したというという意味で、脱船会という名前で、旧交を温めていたが、本格的の東京転勤でそれも完全になくなってしまった。

JAB時代は友人の出来る環境ではなかった。ただただ忍耐の9ヶ月であった。
大きな組織だと、色々相性の悪い人もいる代わりに、気の合うものもいるので救いがある。ところが、小さい組織になると、どちらかに片寄ってしまいなかなか、気に入る相手に巡り会わない。
又黒い犬のために病院を近所に移した。

早速、技術資料の作成を依頼された。前に入社した人は、その仕事に1週間ともたなかったとは少し後で聞いた話である。その時売れ筋商品の技術資料が、中途半端で終わっているので、是非早期に完成させたいとのことだった。
気持ちは分かるが、内容が全く判らないで、そう易々と作ることは出来ない。早速猛勉強を強いられた。

仕事のアウトラインを言い残して、N氏は長期に出張してしまった。
この会社はパソコンがほとんどない。最近の図面は全てCADが常識である。何とかしてパソコンを導入しなければならないと言うことで、申請書(稟議書)を書いた。
小さな会社の全員に近い印鑑を押されたその稟議書に、結局社長ははんこを押さなかった。しかしなし崩しに、デスクトップパソコンが導入された。

後で、じわじわ分かったことだが、社長は何故かパソコンを毛嫌いしていた。
私が入った頃はそうでもなかったが、その内決定的にパソコンを排除する言動をし始めた。
世の中の趨勢に逆らう、全く馬鹿げたやり方だった。
これが、所謂零細企業か、と私はたじろいだ。

それから後も市販のCADを導入するには、金が掛かるので、フリーソフト(JW-CAD)を導入して、作図の練習を始めた。

私にとって初めてのCADである。固くなった頭をひねりながら、何とか一通りの図面を書くことが出来るようになった。N氏は全くのパソコン音痴である。社長も然りである。なかなか牽引することは難しい。

そうこうする内にN氏が出張から帰ってきて、岡山で試験をするという。システムの実証試験(模型試験)でそれによって、技術資料を確立する重要な試験である。
今までは、N氏が一人で計画して実施していたこの種の試験にも加わらなければならない。
私は、本当は何の試験かを知らずただつきあうことになった。
特にN氏は人には一切重要なことは言わない。一人理解して、人は、ただ手足として助力することを望むタイプである。私は、そんなやり方に慣れていないので、当惑した。

そんな中、岡山に出張した。岡山は、若い頃に住んだ場所だ。たいていの土地勘はある。
岡山駅でレンターカーを借り、試験をする、金川まで車を走らせた。
PC製作工場は何故か山間部に多い。
私の前の造船会社は当然海に面している。
とんでも無い方向に来てしまった。

試験用に出来ていたコンクリートの供試体は既にセットしてあった。
ジャッキで両端から500t余りの荷重をかけて、コンクリート構造の強度を測定する。訳も分からず3日間通って結果が出た。帰りは、滋賀の瀬田まで行き、取引先の会社との打ち合わせに同席した。

例の技術資料の草案は、何回もN氏と私の元を往復した。一回では、答が出ない。少しずつ変わる。
私はそのやり方に呆れたが、如何せん此処で、けつを割っては、元も子もない。じっと黙って耐えた。
本当に分かっているなら、答えは一発で出るはずだ。N氏のやり方にどうにも割り切れないものを感じた。
ところ変われば品変わる、私の過去の栄光などここでは全く通用しない。
愚かでも何でもついていくしか道はないのだ。

面接の時パンフレットに出ていた、ジャッキのメーカーに話に行った。私は機械工学を専攻したわけではないので、ジャッキその物や、その駆動ポンプについては良く知識がなかった。

ポンプの操作などは、とにかく車の運転のようなもので、体で覚えるようなものであるらしい。従って、ポンプが故障したり、不具合になっても直せないのが現状のようだ。

しばらくは、旧来のシステムに加えて、新しいシステムも続々出てきたので、私の仕事は、結構な忙しさであった。
何しろ兵隊さんがいないので、何から何までやらなければならない。正直言って、今の歳では、新しいことをやるのはつらい。

そのうち木曽三川に橋を架けるための装置について試験を行うことになった。PC専業社というのは、コンクリート橋の上部構造を製作する業界である。
コンクリートは引張に弱く、この引張部分を、内部に挿入した、鋼材を緊張することによって、もたせる方法を取っている。鋼材を緊張するためには、定着具と、ジャッキが必要になる。この、定着具とジャッキを扱っているのが、この会社である。

木曽三川も原理は同じで、その容量が大きいということに他ならない。
多少の問題はあるものの、試験は何とか終了することが出来た。

元請け業者(一般にゼネコン)への説明で、わずか30分の技術説明のために名古屋に1日費やして出張することもあった。

コンクリートを高強度にする粉体を輸入販売していることも初めて知った。その技術委員会が世界大会に参加するという。私は、内容も何も判らず、その大会に参加するように言われた。
それは、タイのバンコクで開かれるという。

社長に言われたミッションは「タイはエイズが多いからな」と一言だけだった。品のない会社だと思った。
何も分からず、海外シンポジューム参加者の結団式に臨み5月30日タイに向かって出発した。
タイへは4時間少しのフライトであった。

バンコクに着くと、その晩はナライホテルで、タイ式しゃぶしゃぶを食べた。

バンコクでは、連日セッションが行われた。私はその粉体についての知識も全くない、又PC業界のしきたりも知らない。ただ行けと言われてきたのが実体である。情けないことに英語も流暢ではない。
一生懸命英語での発表会を聞くが、全く分からない専門用語をよく聞き取れない英語でしゃべっているからでさっぱり要領を得ない。それでも来たからには、講演に出席しなければならないと必死に我慢して、3日間は聞いた。しかしそれ以上は、出席していても無駄と悟り、朝からプールサイドに持って行った本を片手に寝そべって過ごした。

シンポジームの合間には、買い物に出かけたり、近くの動物園のような所を見学したりして過ごした。
又最終日に近い日、アユタヤへのバス旅行が企画され、それに便乗した。タイの古い都、日本人町の跡などを巡りながら、アユタヤの遺跡にたどり着いた。
静かな仏教国の遺跡は、日本人の私には何か通じるものがあり、心落ちつく気がした。しかしアユタヤの遺跡は、近づくと薄汚れて、考えていたよりもさえないものだった。

さすが仏教の国、釈迦の涅槃像、仏足跡などが、随所に見られた。
同行した、委員の人と外出し、買い物に出かけたが、客引きとおぼしいタイ人にそそのかされて、宝石屋に行った。
同伴した委員が奥さんのために宝石を買うというので付き合った。そのほかは、日中の散歩は暑くてどうしようもなかった。
そのため、日常の殆どを、短パンと草履で過ごしたので、帰ってから有名になってしまった。

セッションでのペーパーを翻訳することになったが、私は、全くの素人でありその任に非ずと固く固辞した。

ついに何ら得ることもなく帰国の日になってしまった。
帰国は6月6日(土)8日間のタイ旅行は終わった。

帰国後特に報告することもなく、日常の業務にもどった。取引先の中国のメーカーとの打ち合わせ、、N氏が通常行っている定着工法研究会などを代理などの形で出席した。

土曜や日曜に出社することが多くなった。
木曽三川向けの図面を作成し、それを届けに名古屋まで出張した。
木曽三川を渡す現場は、コンクリートブロックを四日市でプレハブして、海路現場へ運ぶことになっている。その4現場の事務所を表敬訪問した。

部品のテスト、さらに初めてのエクストラドーズド橋(斜張橋より少し低い橋)に使う定着具のテストに立ち会った。
初めてと言うことで、緊張感はあるものの、原理は同じであるため、殆ど問題なく終了することが出来た。
その後、日本道路公団の四国池田工事事務所にその資料を持って説明に行くことになった。生憎N氏は別件で出張中となり、私が技術の代表として説明することを余儀なくされた。
私はとまどったが、営業のA氏が同行していたのと、試験をしたメーカーの訳知りの人間が同行していたので、最初の口火を切るだけで後はフォローをしてくれた。

しばらくはデスクワークが続いた。私は、とにかくN氏が書いた手書き図面をCAD化するのに力を注いだ。
現行のシステムは、ほぼ出来上がると同時に私の理解の中で、息づいてきた。
新しいシステムを理解するには、現場の経験が少なすぎる。物事、「百聞は一見に如かず」であり「百見は一験に如かず」であることがよく分かった。

そんな折り、PC専業者の試験に立会、ポンプ操作を指導することになった。
冗談じゃない、ポンプなど触ったことは数回しかない。そんなことはお構いなしに、放り出された。
真岡の研究所で、私はその指導とやらを行った。まずポンプにホースを繋ぐところで早くもつまずいた。ホースがポンプに繋がらないのだ。何度やっても駄目であった。
やむなくN氏に電話を掛けて、どうすればいいのかを聞いた。ホースに油圧が残っているためにつなげないのだと教えてくれた。ホースの端部のボールベアリング部をどこかに押し当て、中の油を抜くことで解消できるという。
私はやってみた、そして何とか繋ぐことに成功した。
後は前に誰かがやっていた方法を見よう見まねでやった。幸いなことに、研究所の作業員は、ある程度のことは慣れているので、私のように現場を全く知らないわけではなく、これに大いに助けられた。
いずれにしても指導員は指導員である。知ったかぶりをして、その実、知らないのはつらいことだった。
研究所の研究員の連中も紳士であったので助かった。

とにかく目的を達したが3日間の宿泊出張となってしまった。最後にN氏が来たときには、既に作業は終わっていた。
そのまま帰れるかと思ったが、今度は滋賀の瀬田で試験をするから同行するようにと指示された。
やれやれ人使いの荒いところだ。私はそう思いながらも従わざるを得なかった。

真岡市から滋賀の瀬田へホテルを移動した。更に3日間試験をした。鋼線を運ぶことも、器材の準備も、何もかも自分たちでしなければならない。
日曜日の午後やっと開放されたが、心底疲れてしまった。

それからしばらくは、大型の出張はなかった。1ヶ月あまりは平穏であった。
高松現場への説明。メーカーの工場見学、ゼネコンへの技術説明。出るときは出ることが集中するものだ。

このころ新人のアルバイト女史が、伝票書きや、請求書書きのためにやってきた。

バンコクへ行った関連の粉体輸入元であるノルウェーの社長等2人が日本にやって来るという。
私に観光案内の白羽の矢がたった。
浅草寺と仲見世、隅田川下りのはとバス観光を一緒に回り、案内することになった。
彼ら二人は、ノウィージャンであり昔を懐かしく思った。とても紳士的であり、案内の間中特に困ることはなかった。
最後に、社長の指示もあって、土産物を渡すことになったが、なかなか欲しいものをいわない。ベルトはどうかということになって、物色したが、安いもので良いという。それでは私が困るので、と適当なものを選ぶと、彼らは非常に喜んで帰って行った。

開けて月曜日、鶴岡の現場で緊張の指導があるというので、社長の下の息子と同行した。
庄内空港に飛び鶴岡で泊まって、火曜日に緊張である。緊張そのものは、問題なく終わった。

週末は、また瀬田で、試験に立ち会った。なかなか思うような結果が出ない。
月曜日は、木曽三川のうちの木曽川橋東に最終の仕様を詰めに出張した。考えていることが少しずつ変わるので、対応に苦慮する。
翌火曜日は、四国の三谷川橋で、初のエクストラドーズド橋の緊張立会があり、N氏と共に、出かけた。高松まで空路。高松で、レンタカーを借り、川之江まで行って泊まった。
旧型のジャッキを使っての緊張作業であったが、緊張自体は問題はなく、ほっと胸をなで下ろした。

帰った次の日は、あずさ7号で甲府の現場を訪れた。
なんだかんだと出張が多い。その週末も、シンポジウムが松山で行われるので、行くようにと言われ、松山まで飛んだ。松山での宿泊は、2日となった。帰りは生憎雨模様であった。

週末は大阪のメーカーに飛んで技術の打ち合わせを行った。内容が盛りだくさんで聞いているだけで何が問題なのか容易に理解することは出来なかった。

木曽三川の現場には何度か通った。また宇都宮の現場では、設計が悪く、緊張をするためのジャッキが入らないということもあった。その為、既存の橋桁部分を現場ではつり取って、急場を凌ぐ有様であった。
翌日は、滋賀から、少し東に走ったところに橋脚の高い現場(土山橋)があり、そこへ行った。
新しい第二名神道路の橋は、旧国道を大きく跨いで作られていた。

そのころは社員数も少なかった上に、現場も増えてきていたので、毎日のように何処かに出張しなければならなかった。N氏が中国へ出張している間に松江の現場で緊張指導をすることになった。

私はまだジャッキポンプを自在に扱うことは出来なかった。機材センターから若い人間が一緒に行くことになった。松江のホテルで落ち合ってその時初めて、現場では盛り替え緊張をするのだという。
我々は慌てた。私は勿論、若いその君も盛り替え緊張は初めてでどうやって良いのか分からないと言う。
大の大人が雁首を下げて、松江まで来て、知りませんでは済まない。慌てて、本社に電話した。

本社も技術の分かる人間は居なかったが、前に経験したことがあるという人間から、やり方のポイントを聞いて、翌日現場へ向かった。朝早く出たつもりがレンタカーで少し道を間違え、相手の副所長は少し機嫌が悪かった。
事務所から現場へはその副所長の先導で行かなければならず待たしたからだ。

現場について、緊張作業が始まった。現場職員と、職人に操作を説明しなければならない。ここまで来たら腹を据えて、ベテランであるかのように説明をした。一緒に行った若者は、とにかくポンプの操作に徹した。こうして、何の教育もなく、放り出されて、薄氷を踏む思いで、その場を切り抜けなければならない。大変なところに来たものだ。

帰りの飛行機で若者は伊丹に、私は羽田に別々に帰った。

帰ってからも、大林組や鹿島建設等、第二東名高速道路関係の橋について、緊張定着材の説明に訪れた。さらには、より線購入の最大顧客でもあり、先を走っている住友電工へも技術打合せで訪問した。

そんな中、高強度コンクリートのための微粉末を使ったダムとトンネル現場に見学に行くことになった。盛岡駅集合で、東北新幹線で工事中のトンネルの内部を見学した。初めて見るトンネル内部は、想像よりは綺麗であった。

見学を終えたその晩は懇親会が立食の形で行われた。私には、僅かにバンコクに行った時知り合った人が居るだけで、殆ど他の人は知らなかった。

翌日は盛岡市内近郊視察と言うことで、市内見学を行った。宮沢賢治のイーハトーブの世界に浸った。
博物館での落ち着いた雰囲気に、杜の都の風情を楽しんだり、南部鉄瓶の展示会場で、南部鉄で作ったフクロウを買い求めたりして、出発の14:00になった。杜の都を離れ、大宮から、ローカル線で、自宅に帰ったのは19:00近くになっていた。

落ち着く暇もなく、月曜日高松の四国縦貫道の橋(六条高架橋)で、異音が発生し、緊張材が抜けたとの連絡が入った。N氏は、すぐ現場へ直行した。私は別の試験で、機材センターと神鋼鋼線を往復した。
四国高松での事故は、長引きそうで、私も出かけることになった。日曜日の移動である。
月曜日と火曜日は、現場所長への原因説明をしたが、なかなか納得しない。
私は、ホテルの便せんに、説得を試みるメカニズムを書いてみた。

翌日、所長にそれを説明すると、少し興味を持ったが、最終的な納得は得られなかった。
N氏と私は、機材センターに戻り、事故部分の再現試験を2日にわたって行った。試験結果をもって、再び高松へ行き、日曜日返上で、実際再現性があるのかと言うことを確かめる試験を行った。

それから2日、現場も年末で占める直前まで、ホテルに釘付けになった。

12月28日帰京し29日に出勤して、その年は終わった。


明けて1999年恒例となっているらしい、初出の参拝を愛宕山で行った。
参拝を終えると社長が「○○さんに技術部長をやって貰う」ということで、責任者にされてしまった。

何ともあっけないもので、そして後々、これが、もっとあっけないものであることなど私は気が付く余地がなかった。
後で分かったことだが、社長の思いつき人事で、とにかく目新しいことを好むようである。しかし一切の信頼はなく、名前だけの問題で、私のようなものには、仕事へのインセンティブを採るのはそれが手っ取り早いとの考えのようだった。

またその時、人が居ないので、急に高松から高知を回って緊張指導をしてくれといわれた。
取るものも取り敢えず18:55高松行きの飛行機に乗った。翌日、事故のあった現場の続きの現場で緊張の指導を行った。

緊張作業は、橋梁の規模よって勿論違うが400トンぐらいの力が掛かる訳で、非常に神経をすり減らす。終わるまでは息を抜けない。
高松の現場は、所長以下職員が比較的分かりが良く、午前中の様子を見て、午後は、大丈夫ということで、引き上げた。
といっても、その足で、高知県道の橋(火渡橋)の緊張作業に向かった。
高知駅前のホテルに一人侘びしく泊まったが、遅く着いた駅前は寂しい限りであった。
VZ750でひっくり返ったことをまた思い出してしまった。

翌日は、高知からJRで須崎方面の朝倉駅で降り、タクシーを探し回った。駅前にタクシーのたまり場はないほどの田舎の益だった。
食事に入った食堂で、タクシーを呼んで貰い現場に急行した。現場では、試験緊張をするという。本緊張の仕方は何とか見よう見まねで出来ると思っていたが試験緊張はその意味もまだ知らず、少し勝手が違う。心底どうしようかと悩んだ。

しかしそこは良くしたもので、現場の所長は、やり方を心得ていた。私は、内心ホットしながら、しかつめらしく、存在感を示すために、少しの注意をした。一段落したところで、東京からわざわざ来ていることを知った所長は、恐縮して適当な時間に解放してくれた。
私はタクシーを呼んで貰って、来るのを未だか未だかと気をもみ乍ら、やっとの思いでタクシーに乗り、一気に高知空港まで飛ばした。
高知空港までの距離は相当あったらしく、なかなか着かない。最初は何くれとなく運転手と話していたが、最終のフライトぎりぎりになりそうで、気が気ではなかった。
7740円結構な距離であったが、18:00発の羽田行きに何とか間に合い、帰宅したのは20:30だった。

新年をばたばた過ごした後、昨年末の六条の現場での工事が再開され、再び高松詣でが始まった。
その現場は、客先の意向で、今後の緊張の際は全数立ち会うべしと言うことになった。人質のようなものである。冬の寒い中、高架橋工事の路面での立ちん坊は、寒さが身にこたえた。

この間、大林組を訪問したり、宇部の山陽道の緊張指導に行ったり殆どデスクには座れなかった。
高松の件は、尾を引く。数日明けて、また高松である。流石に向こうの職員は、気の毒がったが、約束であるから仕方がない。
一度などは、N氏と分担して、日曜日家で休んでいると、社長から電話で、「君は何故行かないのか、敵前逃亡するのか」と藪から棒である。
押っ取り刀で、高松行きの飛行機に乗ったこともある。

その合間にも四国縦貫道、阿波池田近くの竜王橋の緊張指導にも出かけた。羽田から高松まで何度飛んだだろう。

そして今度は鹿児島の川原橋での緊張指導だ。N氏が書いて、私が清書しその現場へ送っていた試験緊張手順などを説明に行くことになった。鹿児島からはレンタカーを借りた。
現場事務所で、私はさも分かった風に説明した。相手は、副所長以下スタッフが数名集まった。どんな質問があるかと、内心びくびくしたが、特に困るような質問はなかった。

2日にわたる試験緊張(この時にはその意味もやり方も熟知していた)も無事終わり帰れるかと思ったら、本緊張もいてくれと言う。仕方なくホテルの延長をと思ったが、空いていない。一寸離れた、薄汚れたホテルに移らなければならなかった。
ふと入った飲み屋で、焼酎を頼んだら、芋焼酎だった。小学校の門を出て右側すぐのところに焼酎の蒸留工場があって、私は子供の頃からそこから排出される、芋焼酎の嫌な臭いを嗅いできたので、嫌いだった。
てっきり飲めないのかと思ったが、出された以上、それに鹿児島では芋しかないようで、名物の薩摩揚げと共に一杯飲んだ。するとどうだろう、昼間の労働で疲れていた体にこの芋焼酎は五臓六腑まで染み渡り、非常に旨く感じた。つい度を過ごしてしまいそうな程旨かった。

川原橋での緊張指導の最後、顔なじみになった職員と、午前中の本緊張を終え、鹿児島空港を出たのは14:30だった。

翌日は憲法記念日で、東京では珍しく雪が降った。
明けて金曜日、宇部の広瀬高架橋の現場に出かけた。A氏の知り合いが現場の副所長をしているというので、その晩は、共に酒を飲んだ。
その現場は、新しい製品を使ってくれている現場で、その作業具合を見るのも目的であった。
土曜日一杯かけて帰ってきたかと思うと、日曜日は昼の便で、また高松の現場へ行く。また緊張の立会である。消化試合である。

帰って席も暖まらないうちに、中国人と、N氏と3人で、少し大型のエクストラドーズド橋の打合せで、大阪に出張した。この中国人は、全く日本語を話さない。中国取引先では、相当な地位であるらしい。また大人しいときている。
私は、英語を少しと、後は漢字の筆談をして、意志を通じあった。漢文的発想で書くと何となく意味を理解して呉れた。

入社する前はそうと気づかなかったが、今は忌まわしい会社に入って1年が経過した。6ヶ月の試用期間ということもあって、当初は緊張もした。短いようで長い1年だった。高松の事故現場の件は、まだ尾を引いていた。しかし、現場の所長も職員の中にも、施工方法が悪かったのではないかとの雰囲気も出てきた。

私は、第二東名の静岡県にあるエクストラドーズド橋(都田川橋)の試験をするために住友電工に出かけた。
この時もその中国人と一緒だった。

準備試験を行った後、とって返して、宇部の現場でのケーブルセットに立ち会った。

エクストラドーズド橋の試験は3日にわたって行われた。
試験が順調に終わった次の日は、清水建設にN氏とK氏と3人で訪問した。

私が入る前に清水建設の北海道の現場で、事故があり、当時担当の部長は、非常に神経質になっていた。
要望を聞き、取り敢えずは辞去した。

翌土曜日、久し振りに水戸の偕楽園に梅を見に行った。
偕楽園の梅は見頃を少し過ぎた感じではあったが、大勢の人が園内を散策して写真などを撮っていた。
千破湖周りをぐるっと回るとさすがに疲れた。
当時の大河ドラマの展覧会が模様されていた。僅かに癒される1日であった。

翌日は夕方から、宇部空港行きの飛行機で、宇部まで出て、小郡で現場の緊張作業に立ち会った。
宇部空港は、少し不便なところにあり、宇部市自体もセメントの不況で、寂れた感じを受けた。
宇部での緊張では、A氏が大阪から出かけてきた。

N氏はエクストラドーズド橋の最終確認試験で、単独住友電工に出かけた。こんな所も身勝手で、自分が知れば他はどうでも良く、我々に結果は知らせないままに後になって、あの時はどうとかさも私が立ち会ったように聞くのが常だった。
段々にその考え方が分かるに連れて、信頼感もなくなり、おざなりに過ごすようになった。
現在の私は出向の身である、N氏に現会社と元の会社間の契約内容について出張先のホテルで話したが所詮そんな事務的なことの分かる相手ではなかった。
この先同じような状態が続くとなると大変であるとは感じたが、年齢を考えるともはや贅沢を言える身分ではなく、ほかに就職先の当てもないので、甘んじて現状を受け止める以外はなかった。

金曜日と土曜日をかけて、出雲まで飛んだ。N氏と一緒だった。島根の駅前のホテルに泊まり、翌日の緊張作業の立会に備えた。
職員、職人を集めて、説明をさせられた。問題が発生したが、職人の棟梁の機転で回避することが出来た。島根県での緊張の立会を終え、N氏は次の出張地大阪、私は東京行きの飛行機に乗った。
滑走路が見えるラウンジで、食事を取りながら、大阪行きの飛行機を見送って、東京行きの出発便を待った。帰宅したのは10:00を過ぎていた。

翌週、今度は松山での緊張立会だ。私にとっては初めてのタイプのジャッキを使った緊張作業である。少し緊張したが、社長の息子が外回りをしていて、一緒にいたので助かった。
戻ったその次の日には、瀬田で試験をすることになった。
この様に、手帳は、次の週は白紙でも前日か当日には埋まっていくようなそんなやっつけ仕事に近い立ち回り方をした。
計画的に事を運ぶ人的余裕も、発想もなかった。

土曜日はエクストラドーズド橋の緊張要素試験の試験報告書に掛かり始めた。
休みも何もあったものではない。23日月曜日は振替休日であったが、大阪に移動した。姉の家に泊めて貰い、翌日神鋼鋼線での透明シースの試験に立ち会った。
終わったその足で、名古屋まで帰りそこで安宿に投宿した。N氏と同じである。
翌日、近鉄の蟹江まで出て木曽三川の並びの橋の緊張立会をした。それまで殆ど乗っていなかったレンタカーで、分からない道を帰るのには時間が掛かった。
翌日N氏は四国愛媛でのトラブル対策で出かけると言うことになった。私は、名古屋駅前のホテルに泊まり、翌日は単独で木曽三川のケーブル挿入試験を見学した。翌日も近くの現場を見て回った。

出張の合間合間に進めていたエクストラドーズド橋の試験結果報告書が、一応脱稿した。

月曜日、株主総会があり、私も出ろと言うことで、末席に座った。名前ばかりの総会であり、後は社長の独演会であった。
その夕方、高松の現場の総仕上げに立ち会えとの指示で、私はまた高松に飛んだ。高松まで何回往復したのだろう。その後はトラブルもなく順調に推移した。
ただ冬のさなか、高架橋の上で吹きすさぶ寒風に耐えるのが、最も辛かった。
一度の事故が、こんなに長く尾を引くと言うことを私の経験の中でも余り例がなかった。緊張作業というのはそんなに水物であるのかと暫し考え込んでしまった。

とにかく原理としては、直径15.2mmのPC鋼より線に20tonもの力が掛かりそれを長さ43mmのくさびで掴むのだから、怖いと言えば怖いものである。

高松から帰った翌々日は京都から大阪に回った。さらに瀬田から尼崎と、振り子のように行き来をした。
帰って、学会の研究会に急に出るよう指示され、内容の分からないままに出席した。
またこの頃から、元の会社が早期退職のプレミアをつけるという話が出始めた。私は、元の会社に未練はないものの、今の会社もどうなるのか不安であった。しかし、プレミアを逃すのも惜しいし、先ず今の会社に移籍することで受け入れられるかを打診した。
私は受け入れられることを確認して、正式に退職依頼をしたためた。

私は、入社した当時、良くやるとの評価があり、元の会社の人事の人間から後続者はいないかと打診されたことを知っていたが、とても人に推薦することは出来ないし、社長の気変りの激しさに変なことを言わないのが花だと考えた。
その後社長は出張と称し渡米した。
私は再び高松の橋を回り、施工上の技術的な注意を話して回った。

一方新潟の現場へも説明かたがた訪問した。

社長は、とにかくパソコン嫌いである。パソコンの数は私が入った時は2台ほどあっただろうか、そしてもう1台はマッキントッシュがあった記憶がある。
それまでは図面は手書きであり説明書も手書きであった。勿論N氏の作成である。N氏も全くのパソコン音痴であり。仕事量が少ない間はそれで何とか凌いでいたし、図面は必要に応じて外注していたようだ。
私は、CADを私自身で使ったことはなかったけれど、パソコン音痴ではなかった。CADの有用性をいち早く説き、大勢の、といっても小人数であったが、判子を貰って稟議書を書き、やっとの思いで新しくパソコンを1台導入した。

それに加えて、市販のCADソフトだと何十万も掛かる訳で、とてもそれを言い出す勇気のある人間はいないと踏んだ私は、フリーソフトであるJW-CADをインストールした。
これだと、雑誌代だけで、それ以上はお金がかからない。しかしバックアップ体制がないので、少し不安といえば不安である。

導入するや、今まで手書きであった図面を片っ端からCADで書き直した。
N氏が何を考えているかは、殆ど明らかにしないので、闇雲に書きまくった。
時には家に持ち帰って、書いた。会社の袖机の1段はフロッピーディスクで埋まった。
今まで競合していた、パソコンも専用で使えるようになり、技術報告書も専念して作成することが出来るようになった。

そんな中、前に入っていた人間が、経理の仕事を電算化しようと意気込んで、そこまでは良かったが、既存の大会社が使うソフトを導入しに掛かった。
年配の彼は、丸紅関係の会社から来ていたので、一流商社が使うソフトをそのまま導入しようとしていたらしい。そして約半年の暗躍の挙げ句、そのソフトを使い切れなくなってしまった。
何しろ大商社のそれは、費目も膨大であり、ちっぽけな、家計簿に毛の生えた費目しか必要としない会社では、取り扱うのに無理があった。
そして、入力していた項目が、どこに格納されているのか不明になるなど半年経ってその杜撰さが明らかになった。

従って半年前に遡って、手書きの帳票を作り直す仕事が追加された。そこで、アルバイトの人間を導入して、必死のリカバリーが行われた。
それがもともとパソコン嫌いの社長を決定的なパソコン嫌いにする大きな要因であったと考えられる。

その後は私が有効にパソコンを使い成果をあげているのを見て、そんな社長も機嫌の良い時には、ノートパソコンを2台買ったり、デスクトップを4台買ったり、また経理用とかで何台かのパソコンを買っている。
しかし帳票は未だに手書き大福帳である。

ある時私は、社長とN氏と3人の時に、客先が図面をメールで送付するよう要求するケースが増えているので、Eメールをやらせてくれと話をした。

社長から暫く考えた末に私と,N氏とN女史の3人だけは使って良いとの裁断が下った。説得するのは大仕事であった。
早速総務に言ってプロバイダーと契約した。

そんな時の社長の渡米である。アメリカの社長連中と会食の途中、社長は、並み居る歴々の前で、「うちはEメールなんかしていない。2000年問題も関係ない」と先刻の約束なんか忘れてしまって、しゃべり出したようだ。
同行していたのが、「うちは、もうやっています」と言ったからたまらない。
カッと頭にきた社長は、自分が約束したことなどすっかり忘れ、日本に着くなり、「Eメールをやっているのは、誰だ!罰金だ」とのたもうた訳だ。

その時、私しか使っていなかったので、どうなるかと思ったが、とりあえず名指しの非難はなかった。
しかし総務では社長の言いなりに、プロバイダーとの契約破棄をして、Eメールは暫く使えないものになってしまった。

私は初めてこの時文化的恐怖感を覚えた。ここにいてはだめになる。

そんな中、木曽三川の試験体製作や新しい接続具の見学、国道1号線上の滋賀県内の橋の緊張等で1週間潰れてしまった。

翌週も、新潟で、接続具の指導、木曽三川、微粉末のJIS化会議、愛媛での、技術説明と1週間が矢のように過ぎていく。

日曜日には久し振りに横浜の山下公園から中華街へと出かけていった。
連休はそのほか何事もなく過ぎた。
連休明けには、新潟の現場行きが控えていた。この頃から少しずつ人が増えていった。

特許出願の件で、特許事務所を訪れた。何でもやらなければならない。しかし、特許の文章になじめず、私は、段々とその仕事から外れていく。
新潟の現場での試験概要の説明、清水建設、佐藤建設での技術説明。
神鋼鋼線での透明シース試験を終え帰ろうとすると、本社資材部から電話があった。N氏と一緒の時だった。資材からは、納品間違いで、木曽三川の続きの現場が非常に怒っている。ついては、立ち寄って謝ってくれと言うことだった。

N氏はぶつぶつ言いながらも、私に同行を求め、一緒に叱られてくれと言う。資材は、今までも随分納品間違いをしているので、1回でこんなに怒っている訳ではない。商品知識が余りにも欠如しているとしか言いようがない。
くだんの現場に着くと、副所長を初め関係者が居並ぶ中、罵声か矢継ぎ早に飛んできた。
いずれにせよ我々の会社が悪い訳で、一言の弁明も出来ない。
針の筵というのはこういうものだと感じた。

週が明けて、前会社の人事の人間と、社長、総務とで話をしたらしい。6月末退職7月移籍とのことと、給料の話になったようだが、社長は優遇すると言うだけで、具体的なことは言わなかったようだ。したたかさを感じる雰囲気であった。
やがて、私に示された年俸は、予想よりも低いものであった。
元の会社の人事の馬鹿者が、自分の会社の管理職が、2割の賃金カットになっている年の分まで提出したものだから、それをも参考にされて、低め誘導になったことは否めない。
後でその事で人事の者を叱ると、慌てて、それを削除したものを出してきたが時既に遅かった。

私は人事担当者に言った。「今、貴方は、リストラを促進することが仕事であるから、そんなやり方になる。しかし、自分の仲間を安く売るような真似は断じて良くない。明日は我が身と考えてみたことがあるか」担当者は少し頸をうなだれた。

6月に入って、しばらくはオフィスで過ごした。技術の補充要員であるT君が面接に訪れた。次の週は、相生にある矢野川橋現場での打合せに出かけた。

東京から相生までの新幹線での旅程はとにかく疲れるものであった。
打合せ後そこから、岡山に出て、四国に渡り、予讃線で愛媛まで出かけ、松山に泊まった。
明日は、高知へ行く途中の立川橋での緊張作業がある。

愛媛からは空路帰京したがその翌日清水建設の北海道のバッタの沢川橋で、確認試験をしたいということになり打合せに出かけた。
打合せが終わると、今度は大阪の住友建設に技術説明に出かけた。
帰って、北海道の試験での計画書を作り始めた。

翌週は浜松のエクストラドーズド橋に出かけ、用が終わったので帰ろうとして新幹線に乗っていると、木曽三川の並びで針の筵に座らされた例の現場へ行けと携帯電話が掛かった。
着替えがなかったこともありいったん東京に帰り、再び名古屋にとんぼ返りした。

名古屋で泊まり、翌日現場で作業に立ち会ったが、今回の向こうの職員は、大人しい人で、私が実際にはその作業が始めてであると知っても笑って済ませてくれた。初め想像していたことに比べると、すっと肩の荷が下りた感じであった。

週末元の会社に退職の手続きをしに行った。私の同期生も何人かきていた。行く当てもなく困っているという者もいて、それに比べれば、未だなんだかだと忙しいのは良い方だなと思えた。

北海道の試験体を作り、その試験のための歪み計測のゲージ張りの仕事が出来た。T君は入ったばかりだが、計測の専門屋で、派遣社員の経験もあったので、ゲージ張りなどはお手の物だった。

鉄筋に歪みゲージを貼るのに彼は殆ど一人でこなした。私はそれに付き合って見ているだけであった。
2日掛かって、作業を終え、その足で、滋賀の機材センターの連中を相手に技術的な講義と称して説明会を行った。

中一日東京へ帰って、週末は、道路公団の大阪支店に技術説明をかねて、相生の矢野川橋の所長たちと同席した。終わって、協力業者の町工場を訪れた。
何しろ手狭なところで、また薄暗く、環境的にも十分なものではなかったが、こんな所から、橋の一部が出来上がっているのだと思うと妙に感心するものがあった。

北海道の試験をする日は丁度正式入社の日だった。これで前の会社ともしがらみは無くなったと考えると、特に感慨はないものの、私は造船家(ネーバルアーキテクト)ではないのだと思い知らずにはおれなかった。

バッタの沢川橋(北海道)の試験は、思った以上に問題はなく終了した。少し拍子抜けであったといってもいい。何しろ200トンジャッキを8台も使っての試験である。4台ずつ引き合うので、試験体には800トンは優に掛かっている。
この試験で90万円の請求書がきた。これで、清水建設も北海道の物件を発注してくれることになる。

木曽三川の大林組の現場に技術説明に行く。さらに、透明シースの件で、神鋼鋼線で摩擦試験をするのにも立ち会った。
1週間をおいて住友電工とも透明シースの件で話し合いを持つと共に試験も行われた。

その週は比較的暇であった。次の週も、週初めに新潟での緊張模型試験が行われ、何とかかき集めた面子で、事なきを得た。
外部の人間から見れば、皆こちらは専門家のように思うかも知れないし、それが当然であるが、内実は、昨日、今日入った者ばかりで、中には事務屋も借りだしての応戦である。
私も何でも分かる振りをしているのだが、入り組んだ話になると困る。

久し振りに都内周りだけで現場に行くことがない週があった。
夏休みに入る前の週も、大阪のオリエンタル建設での打合せに行っただけで他は平穏であった。
夏休みといっても実質は無きに等しい。ここでは、そんなことをとやかく言っていたのでは、勤まらない。

休み明け、火曜日から、4泊で週末まで出ずっぱりであった。主に桑名の木曽三川であるが、ホテルは2日を除いて皆変わった。

T君が入ったので、人手が増え若干楽になった。

桑名や、浜松の現場を挨拶がてらに回らなければならなかった。

機材センターで再び講習会が持たれた。年かさの営業連中を相手に技術のことを分かって貰うのは、なかなか容易なことではない。
その時私は押しも押されもせぬ技術の重鎮になっていた。
木曽三川の現場も見学コースに組み入れられていた。それが終わって、いざ帰る段になって、A氏の携帯が鳴った。

相生の矢野川橋で営業面での説明が欲しいとのことらしい。丁度一緒に来ていた営業の人間と、A氏が行くことになったが、私も来いということになってしまった。技術面で何か聞かれた時に困るという理由で。

引き返して、相生で降り、車で十数分の山の中にある現場事務所を訪れた。所長は申し訳なさそうであったが、次々と質問が飛び出した。技術的には何も問題はなく、その時私はやはり不要であった。
向こうの所長としてみれば、3人も来てくれたので、大いに気をよくしていたに違いない。
終わってみると19:40になっていた。東京へ帰るのは大変なので、大阪で泊まって、翌敬老の日に東京へ帰ることにした。
営業の人間はホテルに、私は姉の家を尋ねて泊めて貰った。

相変わらずの現場周りだが、段々少なくなっていく。この頃から、住友電工と、神鋼鋼線との3社で、特許会議と称されるものが開催された。私も最初のうちはメンバーに数えられた。

真岡市にある、オリエンタル工場で、波形鋼板ウェッブの橋の部分模型試験が行われた。緊張材を挿入し、緊張するまでを立ち会った。
第二東名道を中心として、大型の橋が増え、その為に実証試験を行うケースが増えたようだ。

一方では九州自動車道の建設のために、福岡に飛び、ピーエスの設計陣に、システムの説明を行った。その帰りは、神鋼と住電の合同会議に出席するために尼崎を訪れた。
週末は、長野で開かれる、シンポジウムに出席した。

桑名の川越高架橋現場で、緊張材が切れ、大問題になっているとの連絡が入った。私は、若い人に、これもにわか技術者と駆けつけたが、一目見て施工方法が間違っているということに気がついた。
そこで3日足止めを食らったが、現場では、指導員が来ていながらなぜ注意をしてくれなかったのかと逆に怒られてしまった。

以前は体育の教師をしていたその指導員(K君)も、入って日が浅く、そこまでは思い至らなかったという。とにかく、この会社は、全く何も教えない、行って現場で怒られながら勉強しろと言うばかりのやり方である。事故が起こっても全く不思議ではない。

現場の始末が少し気になったが、土曜日曜に姉が来ると言うことで一人帰京させて貰った。
月曜日からまた2日間同じ現場に指導という形で訪れた。一日おいて、浜松から伊丹そして名古屋へと移動した。
11月に入り、住友建設との打合せ、静岡の現場での試験立会、東京の大成建設訪問などが続いた。

土曜日は泉岳寺から東京タワーを回った。泉岳寺には赤穂浪士の墓があることで有名だが、どの墓石も丸く風化していた。

別な橋の試験で真岡市の研究所を訪れた。大型試験が続く。
住友建設の小山技研でも試験があった。

熊本の現場で打合せがあった。熊本空港までは飛行機だから良いが、そこから人吉まで車でもたっぷり3時間は掛かった。
今回は行きも帰りも座席がなかったのでスーパーシートでの往復となった。国内の短距離で、スーパーシートも無かろうといつも私はそう思っていた。

新しいシステムの試験が神鋼鋼線で行われた。丁度この日微粉末の見学会が、木曽三川で行われることになっていたが、代わって貰った。

特許の会議があった。社長は、人を待たせ、別の案件について、部屋の中でひそひそ話をする。腹が立つが仕方がない。

高松の現場へまた出かけた。そして端部のキャップの耐圧を調べることになり、機材センターで試験を行った。

週末の金曜日は、三重県の奥の方に三瀬谷と言うところがありそこへ技術打合せに出かけた。
名古屋の支店長は、東京から転勤したK氏であった。私は名古屋支店開設来、7人目の訪問者であるという。

土曜日はまた亀戸天神(七福神)を回った。

月曜からは相変わらず実物大試験に立ち会う。翌々日は、浜松の現場へ出かけた。
殆ど席の温まる暇がない有様だ。

神鋼鋼線で新しいシステムの試験があった。社長もN氏もいた。さらにN女史の姿もあった。

帰って直ぐ東京環状線の友田高架橋の現場で、事故が発生したと聞き現場まで駆けつけた。所長の話を聞き、現場の様子を見た。これは、我々のせいではない。
現場には何としても施工ミスであると伝えたが解決までは長い道のりになるなと感じながら一旦帰った。

これまでは、やって来たことをオムニバス的に記載してきましたが、時間があればその一つ一つを詳しく描いてみたいと思っています
本来書きたいことはこれからですが、息切れで、休憩です。

<出来るだけ続きを書きます>





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